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この町に立って~映画『千古里の空とマドレーヌ』関係者インタビュー①~

更新日:2022年3月12日

宮城県南三陸町を舞台にしたドキュメンタリー映画『千古里(ちこり)の空とマドレーヌ』が、2022年3月4日(金)~13日(日)にかけて10日間限定でオンライン配信中です。


■『千古里の空とマドレーヌ』公式サイト・オンライン配信専用ページ


そして今回のオンライン配信にあたり、監督である私・我妻和樹が主人公のパティシエ・長嶋涼太さんに実施したインタビューをお届けします。


パティシエ・長嶋涼太さん(2020年11月撮影)

宮城県石巻市のお菓子屋に生まれた涼太さんは、数件のお菓子屋に務めたのち、南三陸町戸倉地区波伝谷(はでんや)の「ペンションOh!ing」の娘である玲子(りょうこ)さんと結婚。しばらくはペンションに同居し、お菓子作りを続けていました。


その後2011年3月11日の地震でペンションが被災し、お菓子が作れなくなるも、ボランティアの協力を得てお菓子作りを再開。仮設住宅に住みながら、営業できなくなったペンションで「オーイング菓子工房Ryo」をスタートし、インターネットやイベント等でのお菓子販売を続けていました。


そして2015年8月にさんさん商店街(当時は仮設営業)で念願のお店をオープン。2017年3月に新設の商店街がオープンしたのと同時にお店を移転し、現在に至ります。


一番の人気は、表面が山のように膨らんだ「お山のマドレーヌ」。もっとも長く親しまれている目玉商品で、サンドウィッチマンの伊達みきおさんが「世界中の人に食べて貰いたい究極のTHE・マドレーヌ」と絶賛していることでも有名です。その焼き立ての味はお店でしか味わえない逸品です。


サンドウィッチマンの伊達さんも絶賛するマドレーヌ。我妻が震災前の2010年にペンションで初めていただいたときには、その豊かな味わいとあまりの美味しさに「地球の味がします」と言ってしまいました。

義理の母が経営する「ペンションOh!ing」は2017年9月に営業を再開。現在は家族みんなでペンションに暮らしています。


私にとって震災前からの友人でもある涼太さんがどのような思いでこれまでお菓子を作り続けてきたのか、震災10年を迎えた今、じっくりとお聞きしました。


※インタビューは2020年11月~2021年3月にかけて数回実施しています。


♦次の記事 「微力は無力ではない~映画『千古里の空とマドレーヌ』関係者インタビュー②~




目次

1.「被災地」を背負い続けた10年間
2.震災後の変化とボランティアの支え
3.ともに前に進む存在として
4.地元に店を構えて
5.お世話になった故人への想い
6.自分は誰かのために動けるか
7.自分自身と向き合い続けて
8.これからのこと


1.「被災地」を背負い続けた10年間


―まず映画を観て感じたことから率直にお聞きしたいのですが、どうでしたか?大部分が2011年12月から2012年4月までの話なので、随分昔の話だと思うんですけど。


そうですね…。今のこの段階で2012年の映像を観たときに、今まではそんなにこう、震災っていうか、被災地っていうものを意識してなかったのが、改めて映像で見ると、何でしょう。すごいところにいたっていうか…。


―それは風景とか見た目も違うっていう意味で?


そうですね。自分が登場してるとか、内容云々っていうのとは別に、客観的に観て、風景だったり、そういうのがなんかこう、胸に刺さるというか。そこが大きいですかね。


―それはやっぱり、震災から長い時間が経って、普段は被災地であるっていうことをけっこう忘れてるっていうことなんでしょうか。だから映像を観て、普段意識していなかった感覚が呼び戻されたとかそういうところなんですかね?


なんかこう…自分の場合は震災があったからお店を始めたいと思ったわけじゃないんですよね。その前からお店というか、お菓子のほうで生計を立ててしっかりやっていきたいなと思っていた中で震災が起きて、その中でずっとがんばってやってきた。だから自分の中では、いつになったら「被災地」って取れるのかなってずっと思ってたんですよね。なので自分の中では「被災地だから」っていうのを意識してないっていうか…うん。でも映像でふと振り返ったときに、「あ、被災地だったんだ」っていう…。


―なるほど。涼太さんとしては、本来であれば震災が無くてもお店を持つためにがんばってたのが、震災が起きて周りの人から見たときに、良くも悪くも震災が自分から離れなくなってしまった。やっぱりそこでの葛藤っていうか違和感もあったっていうことですか?


そうですね。自分の中ではその…お菓子だったり、お店をやっていくにあたって、お菓子の美味しさじゃないところでクローズアップされていくところが、なんか違うなってずっと思ってた。そっちのほうで注目されるんじゃなくて、少しずつ少しずつ自分が作ってるお菓子が「美味しい」ってなって広まって行けばいいなって思ってるところが、やっぱ違うところで広がっていくのにどうしても違和感ばかり感じてた。


―はいはいはい。


だから、それを乗り越えるためにはもっともっとお菓子のほうをがんばらないとと思って、一生懸命というか、取り組んできたところだったので…その、周りの状況というか、風景とかっていうのは、自分の中では見てるようで見えていなかったというか…。


―うん。


そんなところで、今お店ができた中で昔の映像を観たときに、あ、こういうところでやってたんだっていうか、こんなところにもガレキがあったんだっていうのが、なんかこう…心に刺さってきたっていうか。


2012年の南三陸町の町の様子。(映画のワンシーンより)

―なるほど。一方で映画の中に描かれている涼太さんご自身についてはどうでしょう。例えば涼太さんの葛藤とかは、ご自身で振り返って、何でしょう…ちゃんと捉えられていると感じるのか、ちょっと違うんだけどなあって思ったりするのか。僕が描きたいことと、涼太さんが本当に感じていることのズレみたいなものは映画を観ててありましたか?


うーん…。正直に言って、我妻さんが映画を作りたいっていうのは分かってたんですけど、自分は何かをしなくちゃいけないのか、何もしなくていいのかも分からず…。だから本当にそのときそのときの疑問を我妻さんに投げかけただけだったので、こう…変に映画を意識したことはない。


―割と「素」っていう感じだったっていうことですか?それは。


そうですね。あとは今もいろんなことに疑問を感じて、今後どうしていこうかっていうところで悩んでもいるので…。だから、その当時考えてたことと今考えてることも方向性的にはあんまり変わってないかな。


―それはある程度ちゃんと撮れたと思って良いのでしょうか…。


ただ、この(撮影の)あとに、こう…本当にいろんなことがどんどん展開していったんで、その過程がないじゃん?っていう…(笑)


―そうですね…。


だから、その過程でいろいろやってくれた方達に対してどうなんだろうっていうのはある。でも、我妻さんが映画で伝えたいことと自分の伝えたいことは違くて、それはやっぱり、我妻さんの作品として観る必要があるんだろうなと。


―はい。


でも自分はとにかくすべての人に感謝を伝えたいというのが強い。例え登場人物が5人しかいなくても、そのうしろにはたくさんの人がいて、一人一人の出会いとか応援のおかげで今があるんだって、自分は思うので。


―そこに関しては涼太さんの中でいろいろな思いがあると思うんですけど、それでも公開を引き受けてくださったことにまずは深く感謝します。僕としても、すべてを描くのは不可能だとしても、大事なことを描いた映画ができたという実感はあるので、是非たくさんの人に観てほしいという気持ちがあります。一方で、2021年の今、この映画を広めるときに、映画に映っている涼太さんは大部分が2012年時点の涼太さんなわけで、お菓子作りの技術にしても何にしても、当時から成長しているところや変わっているところも多いわけじゃないですか。でも、映画を通して初めて涼太さんと出会う人たちは、それがいつだろうと関係なく初めて出会うことになるわけで、そこに映っている涼太さんがそのまま現在の涼太さんと思われる可能性もある…。


そうそう。前からずっと言ってるように、ドキュメンタリーってその人の人生を切り取ったものだから、それをどのようにやっても、映ってるのは俺自身なわけで…。


―だから、「今もそうなんだろうな」って思われたときに、「でも違うんだけど」ってなかなか反論もできないじゃないですか。作品が独り歩きしちゃうと。


でもそのくらい自分は強くなっていなくちゃいけないわけだから。映画をきっかけに今の自分を知ってもらういい機会でもあるし。それに負けてたら今まで応援してくれた人にも申し訳ないしね。我妻さんも自分の中ではその応援してくれた人の一人なわけで。


―ありがとうございます。そこに関しては、僕も映画を広めるのと同時に、今の涼太さんのこともちゃんと伝えていく必要があると思っています。


だから、いつも思うのは、自分はお菓子で何ができるのかっていうことなんですよね。自分ができることっていうのは限られてるし。その中で、当時も今も変わらないのは、やっぱり自分が作ったものを食べてもらってたくさんの人に笑顔になってもらいたいということ。それだけは変わらない。その中で、今まで出会った人たちとか、応援してくれた人たちに対しては、本当に感謝している。感謝しているんだけど、言葉以上に、自分はここでしっかり立って商売を続けていくことがその証明になるというか…うん。感謝を伝えたから終わりでなくて、本当に、いろんな方の思いの積み重ねで、今しっかり、あの…少しずつですけど、できるようになってきてるんで…。


―はい。


ただ、まだこれがゴールじゃない。だから、これまでお世話になった方にも、これからもたくさんお世話になっていくと思うし、その方たちがこう、常に気になるような…いい意味でですけど、そういう位置にいなくちゃいけないのかなとは思いますね。「あのときマドレーヌ食べれてよかった」って思ってもらえるような。だから、一度お世話になったっていうことは、本当に最後の最後まで、こう、みんなと向き合いながら進んでいかなくちゃいけないのかなと。



2.震災後の変化とボランティアの支え


―今お世話になった方という話が出ましたが、ボランティアさんにしても、お仕事でつながった人にしても、震災後に涼太さんの中でいろんな人との出会いが生まれたと思うのですが、改めてそうした人たちの存在が持つ意味について教えていただけますか?震災前の自分と変わったところといいますか。


そうですね。震災前までは、自分で全部やんなきゃいけないと思ってた。自分にできる範囲っていうのはここまでだから、どうやってもお店を持てないなと。だから小さく小さくやろうって思ってたのが、震災後はできないところはできないって言っていいんだって思った。そしてそれをフォローしてくれる人が必ずどこかにいてくれた。


―はい。


それはお金とか物っていうわけではなくて。自分の場合は本当に、物事を決めるっていうのが苦手で…。なかなか決断力が無いんで、その決断をするための情報をもらったり、相談させてもらったり、そういうのをたくさん重ねる中で、「これならもしかしたらできるんじゃないか」っていうふうに思えるようになっていった。そこに辿り着くのにボランティアさんにお世話になったっていうのは自分の中ではすごく大きい。


―うん。


建設会社でガレキの釘抜きのアルバイトをしていた頃の涼太さん。この頃はお菓子作りを再開する前で、よくボランティアとやりとりをする姿が見られた。(2011年8月撮影)

だからボランティアって何なんだろうって、そういうふうな括りが今でも疑問なところがあって。


―それはボランティアっていう立場だけでその人と付き合ってるのではないっていう?


そうですね。ただのきっかけなだけのような気がするんですね。例えば製造が出来るようになって、販売先が無いって思ったときに、「じゃあ売ってくるよ」って言ってくれたり。それがたまたま震災のときにボランティアで来てた方だった。そこからはもう本当に、外で自分のお菓子と想いとを周りに伝えてくれて…。そうしてやってくれたことが、自分の考えとはズレてなかったから今があると思うんですね。それが少しでもズレてたら、ここまでマドレーヌがみんなに大事にしてもらえる商品にはなってなかったと思うし。


―なるほど。おそらくみんながみんなそういうつながりを持てたわけじゃないと思うんですけど、そうやって長くお付き合いしてきた方々というのは、ちゃんと自分の思いを伝えて、それを理解してくれた人たちっていうふうなことなんですかね?


そうですね。震災の起きた年とかはまだ白衣も着れてないですし…。その中で、本当にガレキの中にいる自分の言葉を信じてくれた。本当、何て言うんですかね。具体的に「こういう場合は連絡ちょうだい」って言ってもらったのが目標にもなったし。「そこまでいけば連絡できるんだ」っていう…。じゃあそこまでは何とか自分の力で進んでいけば、その先は何とかなるかもしれないっていう…光っていうのかな。そのときそのときにこう、先を照らしてもらってたんで。そこまではとりあえずがんばってみようって。


―うん。


だから自分の中の不安を消していってもらえた。全部一人でやらなくてもいいんだって。だから言葉にしていいのかなっていう。


―ちなみにそういう方々っていうのは普段からすごい関わりがあったんですか?


ではないね。


―そうではないけれどもすごく心の支えになっていたっていうことなんですかね?


そうですね。日常的にいたら逆に頼り過ぎていただろうって思うんで…。


ペンションでお菓子作りに励む涼太さん。ボランティアのおかげでお菓子作りを再開するのに最低限必要な設備を整えることができた。(映画のワンシーンより)

―すごくその、応援してくださる方々の存在っていうのが助けになったり力になったりすると思うんですが、一方でその付き合い方に難しさを感じたこととかはないですか?たとえば自分の本心をどこまで曝け出すべきかとか、逆にどこまで頼っていいのかとか。その辺の匙加減とかっていうのはあんまり気にしてはいないですか?


それは本当…人と人なので、それも失敗しながらだろうなと思ってたね。最初は全部曖昧で…。


―曖昧というのは?


たとえば、震災前は全部自分でコツコツやって「ミキサーを買えた」とか、そういうふうなレベルですごく喜び感じてたんですけど、それだと商売にも何にもならないなっていうのが震災後に思って。それで、何とか人の協力を得てお菓子作りを再開したいと思ったときに、ツイッターで書き込んだら、あの被災地に人が来てくれまして。それだけで自分はちょっと怖くなりまして。


―本当に来ちゃったみたいな。


本当に来たっていうのと、それぐらいの注目と、人の気持ちがすごくあるっていうのが分かって。なのに自分は具体的な「何」っていうのを自分の中で持ってなくて。そこでその方たちに、今と同じように正直に「本当に来ると思ってませんでした」って言ったら相談に乗ってくれて、「あ、こうやって相談していいのか」って思ったり。


―なるほど。


でも何かをしてもらうのは今じゃないですと。今何かしてもらって何かはじまっても全部中途半端になるだろうし、その、なんですかね。一人の方っていうか、その人に全部をやってもらうと、なんか重過ぎるっていうか、自分には応えられないんじゃないかっていうふうにも思ったので。


―はい。


さらにその、自分がどういう人間っていうか、それを本当にしっかり理解した上での、ご縁で応援してくれるんならいいけど、そうでないと自分も対応できなくなるっていうのがあったから。だから、本当にいろんな方に「ちょっと待ってください」と。まずは自分で何とかして、そのうちに「こことこことここが必要だ」っていうのが絶対出てくるはずだと思ったので。本当に、そこのところを補ってもらえれば何とかスタートを切れるはずだって。それがまだ自分のなかで見えてなかったから、ちょっと待ってくださいと。


―うんうん。


だからその、俺の「待ってください」に応えてくれた方が…結果的には長く付き合うことになったのかな。だから待てるっていうその力?それはすごいと思う。ごり押しじゃない、「こっちがこうやってんだから」っていうのじゃないところが、自分の中のペースと本当に合ってたんだよね。だからそういうふうなのがなんか、ただの支援者でもないし、ただのボランティアでもないし。「あ、俺の話聞いてくれてる」っていうのが…。


―すごく大事なことだと思いますね。


だから、相談っていうのはいかに自分のできないところを具体的にオープンにするか。あとはやっぱりいろんな方がいたので、自分と付き合うよりもほかの方と付き合ったほうがいいって思う方もいたり。本当にいろんな方がいたんで。


―そこはご縁というか波長が合うっていうのもあったんでしょうね。


震災後に毎月行われていた南三陸福興市への出店の様子。(映画のワンシーンより)

あとは大きかったのが、これはボランティアさんではないんだけど、震災があって1ヵ月か2か月くらいしたときに石巻の自分が修行してたお店に行って、社長に「南三陸でマドレーヌが作れるようになるまで働かせてもらえませんか」ってお願いしたんだけど、「ウチでしっかり働くんであれば入れてやるけど、やりたいことがあるんだったらそっちでやれ」と断られたのが大きかった。もし働いてたら今無いんで。


―はい。


その社長に「そっちで情報集めて人とつながっていかないと」と言われて、そうだよなって思った。さらにその、さっきみたいにツイッターで物が欲しいって言ったらすぐに手に入るっていう話をしたら、「物にもその人の想いが詰まってくるんだから、それを受け止められる覚悟を持って呼びかけしないとダメだぞ」と。


―それは師匠というか恩師に言われたことでもあったんですね。


そうですね。それがあったので、自分の中の力量というか、それ以上のものを提示してきた方にはちょっと違うなと。今それを手に入れてしまったら、今まで自分が努力してきたことが全部ゼロになってしまう。自分はそういうふうな形でお店を持ちたいと思ってたわけじゃないから、最低限のところで、そこからスタートしようって。


―はい。


だから、ある人から「オーブンあげますよ」って言われたときに、その方は嫌な感じじゃなかったんで、ああ、ほしいなって思ったんだけど、それが200ボルトの電力で、ペンションには200ボルトの電力が来てなかったんで工事をしなくちゃいけない。その工事をするお金も無かったんで、今の段階では支援してもらってもすぐに使えないから倉庫に眠らせることになってしまう。そうなったら、それは思いを自分はないがしろにすることになるんじゃないかと。


―うん。


さらにその、元に戻った以上のオーブンなんで…。その方にはいずれって言われたけど、それはちょっと違うかなと。なので申し訳ないですって言って断った。すごく悔しかったんですけどね。今だったら必要かなって思うけど(笑)



3.ともに前に進む存在として


―いずれにしても、そうやってたくさんの人の協力を得てお菓子作りを再開したわけですが、僕も当時こうやって撮影してて鬼気迫るものがあったというか…。何ていうか、涼太さんが震災前と変わってすごく強くなったなっていうのは常に思ってたんですよ。


そうですか(笑)


―はい。自分の覚悟を決めて、人の想いを受け止めてどんどん先に進んでいって、僕は一生懸命追いかけても背中しか見えないみたいな。そういうふうに感じてましたから。なんかすごくもう、みんなの想いに応えようとすごい努力してるように見えましたね。…話は変わるんですが、ペンションでお菓子を作っていた約3年間っていうのは、どちらかというと町内よりかは外の人たちに求められてたって感じですか?


うーんと…自分としては地元の人に、もっとマドレーヌだったり、自分のお菓子を食べてほしいなって思ってたんですけど、あのときはツイッターだったり、情報っていうのが外から中にやってくることが多かったんですよね。なので、これは中に一生懸命売っていくよりも、外にアピールして、「こういう商品見たんだけど、南三陸のどこで買えんの?」っていう話が出てくれば、自ずと中の人が、こう、興味を示してくれるんじゃないかなと。だからまず、今できることは、逆に外に売ることなんだなと。


―それはある意味涼太さんも意図的にやってたところがあるっていうことですか?


そうですね。


―で、外の人でやっぱり大きかったのが、木下さん(映画に登場する奈良から来たボランティアの木下健一さん)ですかね。遠く離れた所でマドレーヌを広めるのにすごくこう、力になってくれた。


うん。木下さんの場合は安定した収入を作ってくれた。定期的に販売をしてくれるので、月に何回っていうふうに決めて、それをFAXで毎月よこしてくれたんで、それをまずカレンダーに記入していって、そこを基準に生産していくみたいな感じで。


―なるほど。


奈良の生協職員だった木下さんは、戸倉地区の避難所である志津川自然の家にボランティアに入り、避難所が閉鎖してからも現地の方々のお手伝いに通い続け、2014年11月に急逝した。(映画のワンシーンより)

ただ、だんだん限界があるっていうのは言ってくれてて。だからその、方向性っていうか、「これからどうする?」「どういうふうな商品にしたい?」っていうのを常に確認しながら、具体的に次のステップに踏ませようっていうのをいつもやってくれてた。


―なるほど。情報を先読みして、どうステップアップしていくかっていうのを木下さんも一緒に考えてくれてたんですね。


そうですね。なので生産性はどうなんだ?っていうことだったり、最高のキャパはどのくらい作れる?っていうのから、それを数字に出してこうでああでっていうのをやりながら、じゃあ、「やっぱ人が足りないから人を入れたほうがいいかな」だったり。ただ生産性のところで見ると、それくらいの収入が無いのに人入れてたりとか。そうするとやっぱ人件費が高くなったり。補助金は補助金でそれは収入とみなされるので、税金が加算されて、今度は税金が上がるとか。だから木下さんのおかげでそういう経営の面での勉強が、ペンションでやってた3年間のうちにいろいろできたので。


―そこまで関わってくださるっていうのは本当にすごいことですね。木下さんの場合、下心とか利己的なところがなくて本当に涼太さんのことだけを考えてそういうふうにアドバイスしてるじゃないですか。


そうですね。だから本当に感謝してもしきれない。ずっと本当に「微力は無力じゃない」って言ってたけど、全然無力じゃないですからって…。


―そうですよね。僕も一緒に過ごした時間で言ったらそんなに長くはないかもしれませんが、被災地の人たちのことを本当に大事にして、自問自答しながら人生をかけて関わってらっしゃるのがよく分かりました。


だからほかの活動を見てもそうだけど、いつも「ここまでする気力って何なの?」と思ってた。神戸のときに何もできなかったっていう、その時の後悔がすごく大きかったみたいだけど。


―そうみたいですね。


だからそういう話を聞いてると、やっぱり自分を動かす力は自分にしかないんだなと。だからどういうふうに、周りからのスパイスを自分にかけてやって、刺激を与えて自分を前に進めていけるのか。そこに対して、木下さんはなんでこんなにウチに通って来るんだろうと思ってたけど、もしかしたら自分に対してのスパイスを欲しがってたのかなと。


―なるほど。木下さんは木下さんで得るものがあったということなんですかね。


自分に無いものがあるから、それを求めに来てたのかなと。だから、「木下さん、この次の手はどうしたらいい?次に進むには」って聞くと、「まずはこうしてこうしたらいいんじゃないか」って。お酒飲みながら、俺お酒飲むと寝てしまうから飲まないけど、朝4時とかまでいろんなことを話したりしてた。だから、なんだろうなあ。自分の中では自分の親のような存在でもあった。知識があって経験があって。


―うん。


それで最後はいつも「決めるのは涼太さんだよ」「最後は涼太さんだからね」って。その決定権を俺にくれてたから、この人とはやっていけるって思えた。決定権がそっちにあるボランティアっていうのは、やっぱ自分の中ではちょっときつい。うん。こういうことやりましたから見てくださいよって言われても、ちょっとそれ必要無いっていう…。その違いが大きかったかな。


―大事なことだと思います。あとはその、町内ではないけれどもお隣の登米市で、三浦局長(当時登米市観光物産協会の事務局長を務めていた三浦信一さん)っていう影響力のある方がいろいろつなげてくれたと思うんですけど、そっちはそっちでやっぱり定期的な?


そうですね。イベントが本当に毎月のようにあったので。そっちは観光協会としてなので、観光協会で購入していただいて、自分が行かなくてもそれを販売して伝えていただいた。他県にも行ってたので、そのときに「マドレーヌ持って行くから」って。なのでイベントで食べた人が局長を通して南三陸にやってきて自分と会ってくれるとか。


―はい。


だから自分が動かなくても局長が前に出て伝えてくれた。自分がやると生産性が上がらないから、数が作れないから、自分は作らせてくださいって言うと「分かりました」って言ってくれて。それをやりながらメディアっていうか、局長はそっちのほうも長けてたから、お菓子が広まる地盤を作ってくれた上で、サンドウィッチマンが取り上げてくれたときに、観た人が「これ知ってるよ」って言ってくれたのが自分の中ではすごく嬉しかった。「あ、これこれ。あの局長が言ってた」っていうのが。


―なるほど。


登米市観光物産協会の事務局長を務めていた三浦信一さん(映画には未登場)。涼太さんの元に足繫く通い、応援してくれていたが、2015年5月に急逝した。写真は映画撮影後に生まれた4人目の子どもの千光李ちゃんと。(写真提供:長嶋涼太さん)

局長も本当にやってくれたんだよね、いろいろ…。だから、なんていったらいいんですかね。サンドウィッチマンとか山中選手(当時のボクシング日本バンタム級チャンピオンである山中慎介選手)に会いたくても会えない人たちがいるわけで、ずるいって感じる人もいるかもしれない。でも局長とかみんながすごいところに持ち上げてくれた。だから自信っていうか、よりみんなに食べさせたいって思えた。本当にすごいなあって。いろんな人に信用してもらったんだなあ、このマドレーヌって。


―うん。


でもつながれるはずがない人とつながれたのは、三浦局長っていうキーマンがいてくれたからなんだよね。その間にはその人が一生懸命がんばってくれた。だから今がある。そうじゃなかったら、今こういうふうになってないし。サンドウィッチマンなんかその後もずっとお応援してくれてるわけで。だからそのことで今本当にお礼が言いたいのに、今いないというのがすごく悔しい


―三浦局長の場合は仕事であってボランティアとは違うかもしれないですけど、涼太さんの思いをちゃんと尊重して動いてくれるっていう点ではいろんな信頼してたボランティアさんと共通していますね。その意味では、震災とかボランティアといった枠組みを超えて、みなさん人として一緒に前に進む大切な存在になっていたわけですね。


そうですね…。だから本当、自分がどこかに行ってやらなくちゃいけないことを、他の方がたくさんやってくれたんだよね。うん。木下さんは木下さんで自分の足りないところを教えてくれて、前に進めるように精神的なところをケアしてくれた。「でも前に進むのも自分のペースでいいんだぞ」っていつも言ってくれた。だから自分は悩むんだけどね(笑)



4.地元に店を構えて


―そんな感じでペンションでお菓子を作り続けて、2015年8月に仮設商店街に念願のお店をオープンすることになりました。その辺の経緯というのは?


木下さんにも相談してたんだけど、元々お店を作る構想はあって。ただお金も無いところだったので、ずーっと渋ってて、大工さんを呼んで具体的に数字を出してみたらべらぼーな金額になったっていうのがあって(笑) 夢ばっかりが膨らみ過ぎてたんだけど、そんな感じでなんかの町の集まりに行ったときに、そこに雄新堂(南三陸町のお菓子屋のゆうしんどう)さんがいて、「今さんさん商店街に空きがあるんだけど、長嶋くんどうだい?」って言われたときに、「えっ?同じお菓子屋さんなのに、同じ商店街に入ってもいいのか?」と。


―はいはいはい。


「そういうふうな誘いっていいんですか?」って聞いたら「いいんだよ」と。


―普通ならライバルですよね。


だからそういうふうに言われたとき、すごく「ああっ」て思って。本当はその、2012年に仮設商店街ができた時点で自分も入りたかったんですよ。でもお金が無かったので、そこはもう、悔しかったけど諦めてたので。そこからだいぶ経って、もう新設の商店街ができるっていうのも決まってて、残り1年8ヵ月しかないけど「どうする?」ってなったときに、どうするもこうするも、これはチャンスしかないんじゃないかと。


―そう思えたのは良かったですね。


その前の年には木下さんは亡くなってるんだけど、おかげさまでそれまでにいろいろ調べてて、建物を建てるのがすごく高いっていうのが分かってたから、「側はあるんだ」って思った。だから中は今ある機材を何とか入れてしまって、もしかしたら可能になるんじゃないかっていうのが2015年の4月だったかな。そんでそこから、お金もないし何も無いので、銀行さんに行ったり。そんで「まずは1年8ヵ月後に返せるくらいしか出せません」って言われて、今度は大工さんに頭下げて…。あとは足らない分を、掛川のお父さん(戸倉地区の避難所である志津川自然の家に長野からボランティアに来た掛川敏昭さん)たちに作ってもらって。


―かつての避難所時代のボランティアさんで、その後ずーっと繋がりがあった方々が…。


そう。掛川のお父さんには1回ログハウスの相談をしてたから、こういうときにどこに相談したらいいんだろうってなって思い出したのがやっぱり掛川のお父さんで。大工もやってたっていうから。「じゃあ木のやつでこういうのとかできないかな」って言ってくれたので、お願いして、オープンの2ヵ月くらい前から来ていろいろ作ってくれて。もう本当バタバタの段階で8月の27だったかな、オープンは。


2015年8月に仮設のさんさん商店街に念願のお店をオープン。(写真提供:長嶋涼太さん)

オープン前には避難所時代からゆかりのボランティアが内装を手伝ってくれた。右の「お父さん」の愛称で親しまれていた掛川敏昭さんは2020年10月に永眠。(写真提供:長嶋涼太さん)

お店の中の様子。(写真提供:長嶋涼太さん)

―まあ、仮設とはいえお店じゃないですか。それは一つ自分の夢が実現できたことになるのかなあと思うんですけど、その辺の心境っていうのは。


すごかったですね(笑) すごいというか、その前までの3年間がほぼ無店舗だった。店舗が無い状態で、ネット販売とかイベントだったりにマドレーヌを使ってもらってたんで、地元ではほぼ見向きもされてなかったんで。


―なるほど。


だから、悔しい思いをしたけどやっぱりこれが自分のタイミングだったんだろうなと。だから2012年時点で仮設商店街に入れなかったのも、「今はまだ早い」っていうことだったんだろうなと今なら思う。だからそれまでに、ペンションでいろんな人に揉まれながら、いろんなことをやってきたからこそ、仮設の商店街に入ってからもいろいろなことができるようになったし。それが無くて、何かが上手くいって最初に商店街に入ってたら、もしかすると行き詰まってたかもしれないなって自分は思う。たぶんいろんなことチャレンジしてないし。


―はい。


だからペンションでやってたときは、このペンションにどうやったら人を呼べるのかなあとか、注目してもらえるのかなあっていうところでいろいろ動いてた。例えばキラキラ丼にしても、ネットで販売できるようにだったり、組合に入ることでパンフレットの中に載せてもらったり。そんで、キラキラ丼は年に4回変わるんで、変わる度に取材に来てもらったり。それをこう、やり続けることによって、忘れない。ふと記憶が薄れるときにまたやってくるっていう、なんかいいタイミングでやってもらって。


南三陸の名物海鮮丼であるキラキラ丼を模したスイーツ。(写真提供:長嶋涼太さん)

―キラキラ丼も涼太さんのお菓子のキャリアの中ではけっこう大きな位置付けですよね。かなりインパクトはあると思うんですけど。


うん。こういったらなんだけどメディア受けする感じがかなり強い。いかにも「ええっ!?」というのが満載してるから。ただそれも見た目だけじゃなくて、いかにボリュームがあっても最後まで食べれるかっていうのをすごく考えてる。でも、本当にたくさんの人に応援してもらってずっとやってきたのはマドレーヌなんだってずっと思ってきたから。それで、その人たちのためにはマドレーヌを前に出さなくちゃいけない。そのためにはまずは入り口を開いておかなくちゃいけない。その入り口を開くのはこっち(キラキラ丼)なんだなっていうのがあって。


―なるほど。


それをずっとやってたらペンションにサンドウィッチマンが来てくれて、そのときにはじめてマドレーヌを表に出せた。だからすごく嬉しかったし、そのあとも何かある度にマドレーヌを使ってくれてて。


―計何回取材に来てくれてるんですかね?サンドウィッチマンは。


取材は4回ぐらい?でもそのほかにもここに来ると必ず寄ってくれるし。だから、なんだろう。どうしてそんなにやってくれんのかなっていうのばっかり。でも、そこには何も深い意味はないっていうか…。


―すごいことですね。


それでその、仮設の商店街に入って何ヵ月かしたときに、ディレクターさんがお店を見つけてくれて、「あれ?オーイングさんってあそこのオーイングさん?」ってなって、「そうなんです」っていったら「取材してもいいですか?」ってなって、サンドウィッチマンのお二人が来てくれて、前はペンションでやってたんで店が無かった、今度は仮設の商店街でお店を持ってっていう話をしてたらあまりにも感動してしまい、涙を流してしまうっていうことがあって…。


―それはテレビでっていうことですか?


そうです。それまでの、ペンションに来てくれてからお店を持つまでの、やっぱり試行錯誤だったり、いろんなことを思い出して。でもあのあとこんなことがあったっていうのを伝えるにも上手く伝えられないし…。でも、こうやって来てくれて、「なんだ、言ってくれたら花輪でもあげたのに」って言ってもらったり、「これ本当に美味しいんだよ」ってすごく言ってくれたりしたのが、いろんなことがフラッシュバックっていうか、もう、感極まってしまって。


―うん。


サンドウィッチマンが仮設店舗に来てくれたときの写真。伊達さんはお山のマドレーヌを「世界中の人に食べて貰いたい究極のTHE・マドレーヌ」と絶賛している。(写真提供:今野大祐さん)

だから、そうやってお店ができて、今までは戸倉までは行けないっていう人に対しても「お店がここにあります」って言えるようになったのは大きいかな。


―それは町の人のためだけじゃなくて、やっぱり外から来る人のためにもっていうのもあったっていうことですか?


そうですね。店を構えたら、やっぱり立地もあったのか、いろんな方が来てくれて。それで、今まで食べてほしいなって思ってた焼き立てのマドレーヌをたくさんの人に食べてもらえるようになった。だから、なんだろう、今もだけど、こんなマドレーヌ食べたことないって言ってもらえるのがすごく嬉しい。通常の焼き菓子っていうのはもう袋に入ってるものなので。



5.お世話になった故人への想い


―その、さっきお名前が出てきた中で、とてもお世話になった木下さんとか、三浦局長とか、あと仮設店舗に入るときに手伝ってくれた掛川のお父さんとかも先日亡くなられましたけど、すごく身近でお世話になってきた方々で亡くなられた方々がいるっていうのも、その、何か時間を感じさせるところもあるんですが、そういったお世話になってきた方の死に際にして、涼太さん自身思うところはありますか?


そうですね。なんていうんですかね。考えが子どもなのかもしれないですけど、ずーっといてくれるものだとばっかり思ってたんで、未だにその死っていうものを受け入れられないでいて…。どうしていなくなんの?と。さらに自分で自分が許せないというか、本当にここまでこう、すごくやってもらっていながら、その形を出せてなかった。本当に「何もいらないんだよ」ってみんな言ってくれてた、その中でのことだったので。


―はい。


だから自分は、応援されたら応援されたまんまじゃなくて、された分何か変化していかなくちゃいけないってずっと思ってた。常に、次来てくれたときには変わってなくちゃいけない。そうすることで、応援してくれた人が「応援して良かったな」って、こう、思ってくれるんじゃないかと思ってやってきた。その、一つ形になるっていうのがやっぱりお店だったり。安定っていうか、何だろうな…。テレビに出るとかもそうだけど。


―遠くの人にも進んでるっていうのがはっきり目に見える形で、ということですかね。


だからなんか、言葉で感謝を伝えるんじゃなくて、正直もうこれ以上感謝しきれないところがあるから、やっぱりその、自分の人生を通して、全部を見せないとダメなんじゃないかなって…うん。ゴールじゃないので、常に。だから今こういうふうな感じで、こういうふうな形になってきてますとか。で、それを感じてくれて、「ああ、良かったな」って思ってくれればいいなって思ってやってきて、生きている間にそれができなかったっていうのはすごく悔しい。


―それはその時点で涼太さん自身が納得できるところに行けてなかったっていう?


うん。だからその、一緒に歩んできてるっていうか、相談してる中で、木下さんだったら、店を持てたんだよっていう形を見せられなかった。局長もこの次の展開に行くためには必要な人だったし、掛川のお父さんだったら、あのとき作ってもらったものを今も使ってるし。あれが無かったら、本当にパンとか焼けないし、逆に形を残してくれてってばかりで。だからそうなるとやっぱ、もっともっと、こう、なんだろ。今まで以上にもっとチャレンジしていかないと、「え?こんなもんだったの?」って言われるんじゃないかっていう。


―やっぱりそれは、なんでしょうね…常に自分自身の目標っていうか、そういうものと隣り合わせにお世話になった人の存在があったっていうことなんですかね。


そうですね。目標…。何かが無いと、やっぱすぐ怠けるし、弱音も吐くし。ただ、今違うことをやってても、これはそのための準備段階なんだって思えればがんばれる。そのために、常に自分が漠然としか考えていなかったところを、そのお世話になった方たちはしっかり具体的なところを出していってくれたから、じゃあそこまで行けばいいんだって。とりあえず、そうすれば何とかなるって。まあ、いつまでも自分ちょっと甘いんですけど…。


2017年3月に新設のさんさん商店街がオープンしたのに合わせて移転した新店舗。毎日たくさんの人がお菓子を買いに訪れる。(2019年4月撮影)

お店の中の様子。(2019年4月撮影)

マドレーヌを含めた焼き菓子の詰め合わせ。お土産やプレゼント用の商品もたくさん用意されている。(2020年11月撮影)


6.自分は誰かのために動けるか


―ちなみに今の涼太さんは、人のために動くっていうことはできますか?もし何か大きな災害とかがあったときに。


うーん…。今まで自分が考えてきたことの逆だから、すごく今難しいです。何て言ったらいいんだろう…。


―無理してやることではないと思いますけど。


無理してやることではないというか、無理は相手に伝わってしまうし…。自分はこうしたいんだって思って、やろうと思っても、それが必要かは分からないし…。


―その辺は実際に経験されたことでもありますよね。


だから相手にできることは、自分のできる範囲なのかなって思ったり。でも何度もボランティアさんに対して、「どうなんですか?」って聞いてたね。「自分だったら正直同じことをするのは難しいと思うんです。なのに、どうしてこの目の前に、俺の目の前に来てくれるんですか?」って。


―しかもその方々って、自分のできる範囲でやってるのかもしれないですけど、でも、100%以上のことをやってるようにも見えますよね。さらに相手のためにものすごく悩んで。


なので、本当、なんだろう。こう言ったらなんだけど、支える側と支えられる側っていうのがあるのか…。だから自分も、支える側になりたいって思うんだけど、全部を天秤にかけてそういうことができるか。自分はそこまで思ってしまう。人のために何かするっていうのは、何か助言するにしても、自分の言葉一つで相手の人生を左右するかもしれないし、そこまで全部責任持てんのかってなると、やっぱりこう、簡単なことは言えないだろうなと。


―涼太さんの中では支える側と支えられる側の関係っていうのは、逆転することはないんですか?ある人との関係性において。


だからそれが、自分がずっと追及してるところでもあって。あの当時はできなかったけど今はできるのか。できることが少しずつ増えていくのか。それは自分から相手のところに行って行動することなのか。それとも遠く離れていても、自分だったらお菓子を贈るだったり、そういうことなのか。でもそれが相手のニーズに合ってるのか、合ってないのか。自分ができることだからってそれを押し付けてやったら、なんか違うんじゃないのか…っていうのがやっぱ、すごくそういうところの葛藤が大きくて。


―はい。


だから、自分がこう、やってもらったことに対して、こう…なんだろ。相手のために何かできるようになったって言っても、それは自分だけの考えであって、相手の中で必要無いですっていうことも必ずあると思う。ただ、自分が何かできるタイミングっていうのがもしかしたら来るかもしれない。そのときになって自分ができることって何なんだろうって考えるんじゃなくて、自分はこれならできるっていうことをまず掴んでおかなくちゃいけないんじゃないのかなと。うん。だから、そのための準備はやっぱり必要なんじゃないかな。


―なるほど。


現在の目玉商品の一つであるサワールージュのアップルパイ。(2020年11月撮影)

だから「今できますか?」って言われても、お店のこともあるし、「今かあ」っていうのが正直なところで。


―まあ、そうですよね。


だから本当、なんだろう、木下さんだったり掛川のお父さんだったり、避難所時代のボランティアみたいに災害があったところの現場に自分が行けるかって言ったら…正直悩んでしまう。さらに今そんなに体力作りしてるわけじゃないから、足手まといになんのが関の山っていうのがもう目に見えてるし。でもそうじゃなくて、もっと情報張っておけば、そのあとの違うタイミングで自分が必要になる可能性がもしかしてあるんじゃないのかとか。だから、そのときだけの動きじゃなく、もっと大きく考えなくちゃいけないんじゃないかとか。


―必要とされることもどんどん変わっていきますしね。


でも考えてるうちはダメなのかな。今行かなくちゃいけないと思ったら行く人は行くしね。だからボランティアさんにそういうのを聞いたときに、「いや、何も」っていう人が多くて、あんまり具体的な言葉が…。


―中には「暇だったから」とか「たまたま失業中だったから」っていう人もいますよね。もちろん、それだけが動機ではないと思いますが。


木下さんには「あのとき後悔したから」っていうのがあったけど、でも、それはやっぱそれまでの過程で、やれることが増えて行ったんだろうなって思う。木下さんが避難所にいたときに何をしてたかっていうのは自分は直接見てないから分からないけど、そのあとにやってくれたことは俺にはすごく大事なことだったし。


―うん。


だから、何だろう。どこまで寄り添えるのか…。その、人のためにやるっていうのも、もしかしたら自分が納得できるためにやるのか…ちょっとわかんないけど。


―自分のためっていうことですか?


罪悪感からやらなくちゃって思うのか。やったからオッケーって思ってそこで終わるのか…。だから、未だにその、ボランティアって一口に言っても種類がいろいろあるんじゃないのかなあと。何も無い人、何もできない人だから来るなっていうのもなんか違う。


―はいはいはい。


震災があって「何かできることはないですか?」って言われても、その人が何ができるかなんてこっちも分からなかったし。得意なことが無くても話を聞いてあげることはできるかもしれないし。でも2泊3日では寄り添えなかったり、だからといって長期っていうのも難しかったり。いろいろ事情も違うと思うんだよね。だから、もしかしたら、ボランティアをして、自分が救われる人もいれば、それもありなんだよなって。


―はい。


そして人のために「やってあげた」じゃなくて、自分が「こういうふうに行動をした」っていうことなんだろうね。やってあげたってなるとまた別になっちゃう。自分は自分が必要としていることと、相手のそれが一致した時にしか動けなかったし。


―そうでないとその人の自己満足っていうか、一方的なものになっちゃいますもんね。


あとは、自分のことで言うと、もし木下さんがお菓子が嫌いだったら俺付き合ってなかったと思うんですよ。


―そうなんですか?でも元々そんなにお菓子に詳しい人ではないですよね?


詳しくはないけど、出すと「俺甘いの好きなんだ」って言って食べてくれて。次はこれ次はこれって。で、食べてから「これ売れないかな?」っていう。そこで「俺甘いの苦手だから」って言って「これどうやって売る?」っていう商売の話だけになってたら、俺こうはなってないって思うから。自分は本当に、木下さんが来る度に、次はこういうのを食べさせたいなって思ってやってたから。


―はいはいはい。


それで、また作って食べて、毎回木下さんが言うのは決まってる。「作りやすいのはなんなの?」とか「この中で一番自信があるのはどれなの?」って。「うーん、やっぱりマドレーヌですかね」って言うと、「じゃあマドレーヌをしっかりやろうよ」って。俺はマドレーヌ屋じゃなくてお菓子屋なんだっていう思いもあったけど、木下さんはそういうところもちゃんと理解してくれてて、マドレーヌを柱にほかのことをいろんな形で展開していけば、それは間違いじゃないんじゃないかって。今にして見れば本当にそういう形でやって来てよかったって思ってるし。


―うん。


今なお愛され続ける焼き立てのお山のマドレーヌ。(2020年11月撮影)

だからこっちが向こうに興味を示す、向こうもこっちに興味を示すっていう形が本当に…なんて言えばいいの?


―やっぱりそこには人と人としての関係があるっていうことですよね。「被災者」とか「ボランティア」という立場だけでお互いの欲求を満たそうとしているんじゃなくて、お互いに一緒にいたいとか興味があって惹かれるっていうのが自然と出てくるっていうのが大事なんだと思いますよね。


バランスって言うのかな。それも同じような感じで。こっちが教わる、だから向こうも何かしたい、こっちもしてほしい、がやっぱり合致してるから、ちゃんとそこで一緒っていうか。勝手に「これをこうしたいんだけど」って言われても、「それは必要ないです」って相手に言えない状況だと、どうしても上手くいかなくなってしまうと思うし。


―はい。


だからお願いするのも自分から。そうなったときに、相手がしてくれたんじゃなくて、自分がその人にお願いしたっていう責任が自分につくから。そうやって自分で一つ一つ納得して、常に自分で選択してきたっていう気持ちはあるね。もし上手くいかなかったとしても、それはそれで人のせいにはしたくないっていうのがあるから。



7.自分自身と向き合い続けて


―次にですね、震災から10年が経って今思うことっていうのを聞きたいんですけど、これまでのことを振り返ってどうでしたか?


そうですねえ…。やっぱり震災が無ければ今のこういう状況もないし、それも今まで話したのと同じで、その…なんていうんですかね、自分自身と向き合うことも無かったし。人とあんまり関わっても来なかったわけで。濃い10年だったけど、その都度その都度思いっ切り悩んできたんで、後悔は何一つないですね。


―最初に伺った、被災地のお菓子屋として見られることに関してはどうですか?その辺の思いは整理できたところはあるんでしょうか。


でも、それは震災っていうのを忘れてはいけないし、前に進んでいくのと両方あるわけだよね。だから俺はもう堂々と「震災の被災地だよ。だから何なの?」って思うようにしてる。そこにやってくる方に対して、別に震災のものを売ってるわけじゃないし。


―そうですね。


だから、さんさん商店街にいる人たちだってみんな自信を持ってやってるわけで。


―そうですよね。だから、一人の人間として生きてて、たまたま震災に遭遇したっていうだけだと思うんですけどね。


それはもう変えられないものじゃん。


―そうそう。


変えられないものだし、そこをみんなで乗り切ってやってきたっていう、ここまで来たら自信になってくるのかな。


―はい。


前まではそれを無しにしたいって、俺は思ってた。やっぱり普通の状態でお店を持つのも大変なのに、こういうふうな形で、震災が無ければ出会えない人たちのおかげでお店を持つっていうのが、なんかすごくルール違反って思ってしまってたから。


―はいはいはい。


だから早く「被災者」っていうのを取りたかったんだけど、逆に取ってしまうと自分から何も無くなってしまうんじゃないかとか、ここにいないと自分は闘えないんじゃないかっていう不安もあった。自分はただ、マドレーヌがあって、それを食べた人が単に笑顔になってほしいだけなのに、来た人に被災のことを伝えなくちゃならなくて、そうして応援してくれた人とのつながりが本当のつながりなのかとか、疑問に思うところもあった。まだそれに頼ってるんじゃないかっていう不安もある。


―うん。


でもこうやって出会えたのはすごいことだし、なんか、こういうパターンもあるんだなって、今は思う。大事なのは継続していくことであって。


―そうですね。それにきっかけが震災であったとしても、涼太さんのお菓子を食べた人が「美味しい」って思う気持ちは本物だと思うんですよ。そこは信じていいんじゃないかと思いますね。


うん。だからもし悪い方に行ったとしても、そこで思いっ切り考えるし、考えて次に進まなくちゃいけない。昔は本当、できないことが多過ぎるのがコンプレックスだったけど、できないことが多過ぎるから、人に頼れるようにもなったし、できないことがあるからこそ疑問にも思えたし、疑問に思えるから人に相談もできた。だから、失敗だったり、マイナスだったりっていうのは、もしかするとプラスなのかな(笑) そんなことばっかり考えてた10年でもあった。なんで、結果今、もう少しで10年になるっていうだけな感じかも。


―はい。


映画の撮影後に生まれた4人目の子どもの千光李ちゃんと。写真は2020年11月の七五三時に撮影。

あとは、今まで一生懸命やってきたことが、なんだろう、人のためってなると、自分の中で絶対限界が来ると思う。そうして失敗したらその人のせいにしてしまうし、そういうのは嫌なので、全部自分のためだって。だから自分のためにやってるから、全部責任は自分にあって、失敗したら自分が悪い。そしてその失敗っていうのも、失敗することによって、こうするとダメなんだっていうふうに覚えられるんで。


―うん。


そういうのを自分で学んだ上で、必ずチャンスはやってくるはずだっていつも思ってたから。そのチャンスのときに、いかに自分のMAXを出せるか。そのときにアピールできなかったら、今までやってきたこととか、悔しいことだったり、そういうのが全部無駄になってしまうから。


―はい。


だから人との出会いのときにも、もしかしたらチャンスは今なんじゃないかなって思う。だからその、毎回精一杯説明…説明っていうか話をして、「応援してください」ではなく、「自分ががんばります」「だから見ててください」と。


―これから先も、それは変わらないですかね?


そうですね。そうじゃなかったら、今まで応援っていうか、気にかけてくれてた人に、「まあ、あんなもんか。やっぱりな」って思われてしまう。そうじゃなくて、「またちょっと変わった」って思ってもらいたい。本当に少しずつですけどね。



8.これからのこと


―ちなみに今年は小学校のPTA会長を引き受けたみたいですけど、その、お菓子職人としてやるべきことっていうのもあれば、父親としてっていうのもあるでしょうし、町の人間としてっていうのもあると思うんですけど、今後の自分の役割みたいなものは意識したりしますか?


うーん…。そこに関しては、みんな無理をしなくちゃいけないっていうけど、無理すると絶対続かないので。自分ができることを精一杯やって、それが町の貢献になれば、貢献になったってことだし。親としてっていうのも、自分がお菓子を一生懸命作って、たくさん売れればそれだけ生活のほうも変わっていくだろうし。今後子どもたちもどんどん大きくなっていくからね。だから、なんだろう。自分としてはあんまり変わらないけど、一つのことだけじゃなくて、いろんなことを考えなくちゃいけなくなるっていうのはあるよね。


お店を閉め、従業員が帰ってからも夜遅くまで働き続ける涼太さん。(2020年11月撮影)

―これから先の展望とかはありますか?新たな夢っていうか。


当面の目標みたいなのはいろいろあるんだよね。でも目標はなんていうかこう…ここをこうすればこうなってこうなるからここに辿り着けるっていうのが目標なのかなって。夢っていうのはもっと別格なもの?そう考えると…最近あんまり熱くならないのが悔しいっていうか。ペンションにいたときのほうがもっと攻めてたような気がするんだよね。


―逆にそれは安定っていうか、着実に進んできたっていうことの裏返しでもあるんじゃないですか?ペンションでやってた頃はいろんなものが欠けてて、欠けてれば満たされなくて追い求めるっていうか。そういうことではないんですかね?


うーん…。でもまだまだうちのお菓子なんか知ってる人少ないんだから、もっともっと攻めるべきところはあるんだけどなっていう…。映画の中でも言ってる「笑顔を増やしたい」っていうのを、どうしたら増やしていけるのかっていうのもあるし。


―ちなみにコロナの影響とかはあるんでしょうか。


やっぱり影響は大きいよね。ただそれは自分だけの話ではないから。そこが震災のときとは違うところなんだよね。この状況で来てくださいとも言いずらいしね。


―そうですよね。


震災後は被災者っていうのをある意味武器にしてたところもあった。そのほうが人が自分の話を聞いてくれるというのもあったので。ただこの10年でそれが段々取れていって、コロナで自分だけが特別じゃないってなったときに、今困ってると言っていいのか。どのように相談を持ち掛けたらいいのか。自分の中ですごい葛藤がある。


―はいはいはい。


だからあのときはみんなゼロベースだと思って、ここから一歩踏み出した人ががんばれる人なんだと思ってやってたのが、今みんな同じで、逆に今は自分が踏み出せてないので、自分はこのままでいいのかなあ、なんか違うなっていう気持ちが出てきた。そこをどうしたら前に進んでいけるんだろうっていうのが今の課題ですね。


なるほど。


ただ、ずっと変わらないのが、自分が結婚するときに決めたことなんだけど、やっぱりお菓子で家族みんなを養っていくんだっていうこと。それだけは変わらない。


―はい。


それとやっぱり、家族が一番最初に焼き立てのマドレーヌを美味しいって言ってくれたから、それをメインにすることは今後もずっと変えるつもりはないので。


―うん。


ただ、そのためにはお客さんにここに来てもらわなくちゃいけないんだけど、どうしたらいいのか。さっきも言ったように、自分が求めてるのは、被災地の経緯とか全く知らない人にこのマドレーヌをあげて、食べて、美味しいって思ってほしいということなんだけど、ここで悶々と作ってるだけでそういう人とつながれるのか。もしあれだったら、逆に自分が出ていったほうがいいのか…。だから、次の展開っていうのは、もしかしたらそういうふうに変わっていくのかな。


―なるほど。


ああ、そうだ…思うんだけど、お菓子を食べるときって、怒ってるときにはあんま食べないじゃないですか。


―そうですね。


だから、「お菓子でみんなを笑顔にさせたいなあ」の「みんな」っていうのをもっと具体的に見たときに、「世界」だったり。大き過ぎるけどね(笑)


―すごくいいじゃないですか。


でもなんかさ、こう、ニュースだったりいろいろ観てると、みんな「なんでそんなにケンカしてるの?」って思ったり。「何か足んないんじゃない?」って。だからもっといろんな人に食べてもらって、みんなにもっと笑顔になってもらえれば、隣近所のケンカだって無くなんのかなあと。そのためのアイテムの一つになってくれれば嬉しいかな。


―世界平和ですね。


でも、それも自分の周りの人をちゃんと大切にした上での話だからね。


―そうですね。でもやっぱりその、広げるっていうのはどこまでも無限じゃないですか。一人でも多くの人に食べてもらって一人でも多くの人に笑顔になってもらうっていうのは、どこまでも無限で夢がありますね。うん。


だから俺、どっかで区切りをつけるというか、みんなにオープンにして感謝を伝えられる場っていうのが、今回の我妻さんの映画が本当にチャンスなんじゃないかなと。そうなったら本当に、今度は違う意味で応援してもらえるような気がする。被災地の応援ではなくて、大きなことを言えば、世界にマドレーヌを広めていくための応援に進められれば。


―はい。


だから、正直言ってこの機会を利用しようって思ってる(笑)


―まあ、逆に言えば僕だって涼太さんのことを利用してることになると思うんですよね。ただ僕は人を傷つけるってことはもちろんしたくないし、相手が嫌なことを推し進めるつもりはないから。お互いの納得の中で、お互いが思うことをどう一緒に実現していくかっていうことだと思うんですけど…。


だから、我妻さんを通して自分の知らない分野から学ばせていただければと。


―自分が参考になるかは分かりませんが…。でも映画を通してこれからもいい出会いが増えていくといいですね。僕もがんばります。大分長くなりましたが、最後にこれだけは言っておきたいということがあればお聞きしたいのですが、大丈夫ですか?


とにかく一番自分の中で言いたいことっていうのは、本当に全ての人に感謝っていうことなんですよね。今があるのは自分一人の力じゃないっていう。今まで出会ったすべての人のおかげで、自分はこういうふうに成長…成長っていうか、いろんな考え方ができるようになったので。


―はい。


今のお店でがんばってくれているスタッフにしても、自分一人ではできないことをみんなが理解して責任を持ってがんばってくれているから、夢を追いかけられているし、お菓子だけじゃなくて、たくさんの人がライバルだから、負けないように一つ一つ前に進んで行ける。ここで一人一人お名前を挙げられないのが申し訳ないけど、そうした一人一人の出会いに本当に感謝しています。そして、これからもいろんな方と出会っていくと思うし、頼りないと思うんですけど、ゆっくりじっくり、もっともっといろんなことにチャレンジして、がんばっていきたいと思います。


―ありがとうございます。ちなみに5人目とかっていうのは?


ないですね(笑)


―そうですか?僕、すごくいい名前考えたんですよ。


そうなんですか?(笑)


―はい。言っちゃってもいいですか?


いいですよ。


―千洋(ちひろ)、千草(ちぐさ)、千空(そら)、千光李(ちこり)って来てますよね。最後に千夢(ちゆめ)っていうのはどうですか?千の夢で千夢。


ふーん。


―考えたことありましたか?今まで。


ないです(笑)


―あ、ないですか?なんか良くないですかね?千の夢。みんなの夢、たくさんの夢。まあ、また女の子になっちゃうかもしれないですけど。


ははは(笑)


ペンション前で家族の集合写真。(2020年11月撮影)

※涼太さんが並々ならぬ思いで作り続けている「お山のマドレーヌ」は下記で購入することができます。是非ご利用ください!


■南三陸deお買い物 (通販サイト)


■のもの東京駅グランスタ丸の内店


<関連リンク>


■『千古里の空とマドレーヌ』公式サイト


■オーイング菓子工房Ryo


■ペンションOh!ing


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