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微力は無力ではない~映画『千古里の空とマドレーヌ』関係者インタビュー②~

宮城県南三陸町を舞台にしたドキュメンタリー映画『千古里(ちこり)の空とマドレーヌ』が、2022年3月4日(金)~13日(日)にかけて10日間限定でオンライン配信中です。


■『千古里の空とマドレーヌ』公式サイト・オンライン配信専用ページ


数回に亘ってお届けする関係者インタビューの第2回では、本作で主要人物の一人として登場する木下健一さんの奥さんにお話を伺いました。


木下健一さん(映画のワンシーンより)

震災時、奈良の市民生活協同組合ならコープに勤めていた木下さんは、いてもたってもいられない思いから1ヵ月間仕事を休み、南三陸町戸倉地区の避難所・志津川自然の家に2週間ボランティアに入ることになりました。


そこでの経験や現地の人びとから受けた影響が大きく、2011年6月からは、関西の生協が岩手県に立ち上げた被災地支援事業に携わり、2012年3月までの10ヵ月間、岩手県に住んで現地の支援活動を進める傍ら、個人で戸倉地区にお手伝いに通い続けました。


2012年4月以降は奈良に戻り、関西生協組合員の岩手へのボランティアバスを担当する傍ら、遠くから戸倉の方々を応援し続けました。その後2014年11月に急逝し、2018年9月にゆかりの方々の手によって戸倉の海に散骨されました。


今回のインタビューは、そんな木下さんの生前の活動について、2021年2月に監督の我妻和樹が奥さんに電話取材させていただいたものです。なお、奥さんが匿名を希望されたため、記事内では木下健一さんのことを健一さん、奥さんのことを木下さんというふうに使い分けています。


■前の記事 この町に立って~映画『千古里の空とマドレーヌ』関係者インタビュー①~




<目次>

1.映画に残った「葛藤」
2.災害ボランティアを始めた動機
3.被災地のニーズに真摯に向き合う
4.現地の方々との信頼関係
5.行動することの大切さ
6.震災10年で見えてきたこと
7.被災地から遠く離れた土地に生きる人間として
8.微力は無力ではない


1.映画に残った「葛藤」


―まず率直に、今回の映画はいかがでしたか?途中段階を含めて何回かその、バージョンをご覧になったと思うんですけど。


映画そのものの感想というのは、ごめん、客観的に観れてないところも大きいからよく分からない。けど、あの中で涼太さんがずーっと描かれてたでしょ?で、涼太さんがすーっごくしっかりした人だったんやなあっていうのが、よーく分かったのね。それがすっごく嬉しかったです。


―それは健一さんがどういう人を応援していたのかっていうのが具体的に見えてきたっていうところですかね。


はい。それもあるんですけど、主人がずーっと「頼りない頼りない」って言い続けてたから。たぶんそれは、あの映画を観て分かったんやけど、経営という面に関して頼りなく見えたということやと思うのね。うちの主人はそういうこと詳しかったからね。だから、あんまりにも頼りないって聞いてたから、どんな人なんやろうって思ってたんやけど、すごくしっかり自分のこと考えてて、お菓子作りのことなんかもね。だから、えらいなあって思いました。良かったって。涼太さんが自分なりにものすごくがんばって、自分のお店を持てたっていうのが、一番嬉しかったです。


―なるほど。あの…あれって2012年の話じゃないですか。実際にはあのあと奈良に戻ってからのほうが、涼太さんと健一さんの関係ももっと濃くなっていって、涼太さんからも、たくさんお世話になっていろんなアドバイスをいただいたっていう話を聞いたんですけど、本当はそこをこそ出してほしいっていうふうに思われるところもあると思うんですけど、ただ実際にはその…。


記録が無いもんはしょうがないですよね(笑)


―その辺に関しては、健一さんの奥さんという立場から見て、なんか描かれ方として不十分というか不本意なんじゃないかとか、これだと健一さんは残念に思うんじゃないかっていうふうに感じたところはありますか?


それはたぶん大丈夫だと思います。


―そうですか。それは健一さん目線になってみてっていうふうな?


そうそう。


―それはどの点でそういうふうに思うんですか?


うーん。あの…葛藤してる気持ちがよく分かったからね。本当にずっと葛藤しながらやってたなって私も思うから。そこはすごくきちんと描いてくれてたから。だから本人もあれでよいのではないでしょうか。と思いますが、その辺は聞いてみないと分かりません(笑)


―まあ、そうですよね。ご本人にしか分からない。人ってどこでどういうふうに考え方とか心の持ちようが変わっていくか分からないから、あくまである時点までのっていうふうなところですもんね。そこはやっぱり描く側としてもこう、慎重にならないといけないというか、これから上映とかで健一さんのことを話す上でもちゃんと考えないといけないところだとは思いますね。


はい。ありがとうございます。それと…我妻さんが本当に粘り強くようがんばらはったなあと思って。えらかったですねえ。


―ありがとうございます(笑)それこそもう何年もお待たせしてしまいましたが、こうして完成させることができて本当に良かったです…。健一さんが亡くなって、お宅にご挨拶に伺ったのが2014年の12月でしたから、もう6年間も木下さんをお待たせしてしまったわけで…。こちらこそ、ずっと見守ってくださりありがとうございました。


いえいえ、何もできんで本当申し訳ないけど。そうか、もうそんなに前になるんやな…。


※健一さんと涼太さん。奈良に戻ってからも、健一さんは涼太さんにとって一番身近な相談相手であり、夢を応援する人として傍らに居続けた。(撮影:沖山優さん)


2.災害ボランティアを始めた動機


―それで、今日はその健一さんについて、奥さんの立場から見てきたこと、感じてきたことを伺いたいと思います。まずは健一さんの被災地支援に関する生協のお仕事とか、戸倉でのボランティア活動…ボランティア活動っていうのは戸倉だけではないかもしれませんけども、そういった被災地に関わる活動っていうのを木下さんがどのように見ていたかっていうところから伺っていければと思うんですが。


あのね、私ももうはっきり覚えてないところもあるので…ごめんね、自信がないですけど。


―本当に熱心にやってらしたというか、映画を観た人はまず、健一さんがとても真剣に被災地の方々と向き合ってらしたんだなっていうのを感じると思うんですけど、そういうところは奥さんから見てどうだったのでしょう。


はい。あのね…生活の全てをそれに傾けてましたね。その当時主人の両親がまだいまして、同居してまして、世話が必要だったりしたんですけど、世話もしなくちゃいけないと思いつつ、やっぱりボランティアのほうもしたいっていう思いがすごく強かったみたいで、ほんまに生活のほぼ100%をそちらに振り向けてたような気がしますね。


―はい。


で、この映画で語ってたかどうかちょっと記憶にないんですけど、阪神淡路のときにね、すぐ近くで起きた災害だったのに支援に行けなかったっていうのがすごく心残りだったみたいで。あの頃仕事が一番忙しい時期やったのでね。それがずーっと心に引っ掛かってたみたいです。で、3.11のときは、これはもう行かへんかったら自分が後悔するって思ったみたいでした。そやから私たちになんの相談もなく行ってくるって言って、行ったように思います。


―なるほど。それはご本人の中ではすごい決意があったと思うんですけど、周りから見て冷静な感じなんですかね?


あ、そうですね。あの人ね、あんまり感情的に行動するということがない人だったから。なんていうか、自分がすることにある程度の道がなんとなく見えてるっていうか、自分で考えて定めてから行動するっていうタイプだったから、感情的っていうのではなかったです。冷静でしたね。


―なんか、前に段取り8割っていう話を聞いたことがあったと思うんですけど。


いつも言うてました。仕事はなんでも段取り8割だって。で、被災地のことをするようになって、私もよう分かったんやけど、ものすごくよう調べるんですよ。新聞読んだりニュース見たり、ネットの記事を読んだりして。で、自分が何を知りたいかっていうのをよう分かってる人やったから、いつの間にか、忙しかったのにいつ読んでるんやろっていうくらいいろんなもの読んでて。それで、自分が今何をしなくちゃいけないのかっていうのを考えていたような気がします。


―それは2011年5月に初めて南三陸に入る前にっていうことですか?


それはずーっと。


―なるほど。そうやって自分が何をすべきかっていうのをずーっと考え続けてたっていう。


それと、3.11の震災がある何年か前からね、自分がずっとやってた仕事に疑問を持ってたっていうか、「こんなはずやなかったのになあ」っていうことを思ってたところがあったのね。あの、こんなんいうたら怒られるかもしれへんけど、生協という組織でありながら、なんかこう、スーパーのような、小売りの仕事になっちゃってる? 組合員の生活を助けるとか、何ていうたらいいんだろう…。


―あれですよね、物を売ったりっていう以前の理念が…。


そう。それだけじゃないよねっていう。生協の理念みたいなもんが、なんか失われてるんちゃうのん? っていう感じを持ってたと思うんですよ。だから、自分がこの仕事をずっとやってていいのか、これだけで終わっていいのかっていうことはずっと思ってたみたいで、一時期仕事をやめたいって言ってたんですよね。


―その辺のお話は映画の中でも出てきますよね。健一さん的には、震災前から具体的に自分はこういうことがしたいっていうのは何となくはあったっていうことなんですか?


そこまでは分かってなかったと思う。自分でも。でもこのままじゃあかんよねっていうのは思ってたみたい。ただ辞めるって言ったときに、私は「それは辞めんといて」って言うたから、うん。そのまま続けてたけどね。


―ま、何かしらその、社会をより良くしたいとか、人のためになることを…。


役に立ちたいとは思ってたと思う。



※ボランティア活動をする健一さん(撮影:林輝泰さん)


3.被災地のニーズに真摯に向き合う


―そういうことを考えてた中で震災が起きたっていうことだと思うんですけど。


うん。


―で、そうやっていろいろ情報収集したりして入念な準備をして現地に行ったと思うんですが、僕も撮影しながら健一さんに伺ったことがあるんですけど、健一さんって、どこかで仕入れた情報だけで判断するんじゃなくて、とてもその、人と会って、生の声を聴くというか、現地の方々との関わりを大事にされてる方だなっていう印象が強かったのを覚えています。ボランティアの中には、相手が望んでいることに対して自分に何ができるかっていうよりも、自分がしたいことを優先したりコミュニケーションが足りないためにズレが生じてしまう人もいると思うんですけど、もちろん健一さんもそういうことが全くなかったというわけではないと思うんですが、そうした現地の方々と関わる上での悩みとか難しさっていうところについては、木下さんはどのくらい健一さんからそのお話を聞かされていたのでしょうか。


うーん。いっぱい聞いちゃったからパッと思い出せないけど…。一番言うてたのは、向こうのみなさんの状況とか、そのときそのときに必要としていることが刻々と変わっていくじゃないですか。せやからそれに対応して次に何をしたらよいのか、今どうしたらいいのかっていうのが、ものすごい判断するのが難しいっていうことはずっと言ってました。


―はい。


こないだまではこれが必要だったけど、もうこれはいらなくて、また別なことが必要なんやっていうのがどんどんどんどん出てくるので、それはいつも難しいなって言うてました。それと、なんぼやってもやっても…映画の中でも言うてたけど、本当にこれが役に立ってるのか分からへんって。それはずっと言ってましたね。


―やっぱり常に自問自答してたっていうふうな…。


だと思います。


―木下さんとしては、そういう姿を見ていて、あんまりやり過ぎじゃないのとか、疲れないんだろうかとか、そういうふうに思うことはなかったですかね?


それはなかったですね。実際には疲れ過ぎてたみたいなんですけどね(笑) それは私はあんまり思ってなくって。なんかこう、すごく生きがいを見つけて、やることが見つかって良かったなあとは思ってました。


―なんか、あれですかね。悩みながらもその先に何か見つけられそうっていうふうな、そういう実感が健一さんの中にもあったんですかね。


ああ…どうだろう。それはちょっと分からない。分からないけどライフワークにしたいとは思ってたかもね。何回か東北に引っ越そうって言ってたからね。


―実はご本人からもそういうお話を聞いたことがありますね。


あっちのほうで暮らしたいとずっと思ってたみたいやから。たぶんこの先ずっと、東北の人たちのためにできることをしていきたいと思ってたんやろうなって思います。


―それは木下さんとしては全然普通に付いていくつもりでいましたか?


最初はいいよねと、付いていってあげようと思ってましたが、最後のほうは、ちょっとやっぱり無理かもしれへんなって思ってました。私としては。


―無理かもしれないっていうのは?


友だちはいないし、私はその頃家庭菜園に凝ってましたので、東北に行くと冬場何もできないじゃんって思って、ちょっと無理かなって自分勝手な事思ってました。


―なるほど。


私としては、主人が生きがいを見つけて、東北のみなさんの応援を一生懸命やるのはすごくいいことだなあと思ってたんですけど、私にとっては、横で見ててそれは私の仕事ではないなあってずっと思ってたので。主人のしていることを応援して、手伝ってあげようとは思ってたんやけど、なんかやっぱり、東北のみなさんのお手伝いを直接するっていうのが、ちょっと私には付いて行き切れん。私自身の仕事としては違うかなあってずっと思ってたから。その辺はね、申し訳なかった。せやから、主人が亡くなった後、ほんまやったら引き継いで出来ることをしたらよかったなあと思うんですけど、どうしてもそれは、「どうせ引き継いで自分がやったとしてもどっかで行き詰まるよね」って思ってたから。それはようせんかったですね。


―はいはいはい。


それと、あの、主人みたいにいろんな情報を敏感にキャッチして、それを元に考えて自分の方針を決めるみたいな能力が私にはないので、やっぱそれはできんかったっていうのが申し訳なかったっていうか残念やったっていうか。なんですけど、きっとやってても途中で挫折したので。まあ、仕方ないなあと。


―なるほど。



4.現地の方々との信頼関係


―で、そのような形で、主に戸倉の方々と長年関わられていたわけですが、戸倉の方々は木下さんが2014年11月に亡くなった後に京都に来てくれたんですよね?


うん、そうです。葬儀は家族葬でしたんですけど、仕事が奈良だったでしょ?そちらのほうで生協の方を中心に送る会みたいなものをしてもらったんですね。そしたらたくさんの人に来てもらえるかなあと思って。そのときに東北からも来てもらいました。で、涼太さんにご挨拶してもらいました。


―あ、そうだったんですね。


はい。


―そういうふうに戸倉のみなさんに来てもらって、木下さん的にはどういうふうに思いましたか?


嬉しかったですよ。なにしろ遠いですからね。すごく時間かかるじゃないですか。それなのにわざわざ来てくださったのでね。私も嬉しかったし、もちろん、本人もきっと嬉しかったと思います。


※木下さんの遺骨は長年ご自宅に保管されたままだったが、2018年9月にゆかりの方々によって戸倉の海のペンションから見える場所に散骨された。

―あの、そのような健一さんと戸倉の人たちの関係っていいますか、関わり方をどういうふうに捉えてますかね。なんていうか、元々はボランティアとして入った知らない人同士かもしれませんけども、濃密な関わりっていうか…一方でほどよい距離感での関わりっていうふうに言える部分と両方あると思うんですけど。


それは本人も言うてましたが、第二の古里やったんですって、戸倉が。せやから、親戚やったんやね、きっとね。主人の心の中ではね。だからかなり濃密な付き合いやったと思います。なので、私もそのつもりでお付き合いをしてきました。


―常に心のどこかに存在している人たちっていうふうな。


はい。そうですね…。仕事で岩手のほうに行ってたでしょ?それでもそれと同じくらいの割合で戸倉の人たちのことはいつも考えてたと思います。もう大好きだったんですよ。


―何て言ったらいいんですかね。大切な人たちっていうか、僕もその気持ちはちょっと分かるところがありまして…。例えば自分の身近な大切な人たちとかがみんないなくなったとしても、自分にはまだ波伝谷の人たちがいる、みたいなところがどこかにありまして。


あー、はいはい。なるほどね。そんな感じかもしれないです。


―ということは、健一さんの中でも戸倉の方々の存在が、健一さん自身の生き方の支えになっていた部分もあるっていうことなんでしょうかね。


うん。たぶんそうやと思います。主人があちらの方を支えているというよりは、うーん…かなり精神的に支えてもらってたのかもしれないですね。自分の存在意義みたいなものを確かめる存在みたいな感じで。


―なるほど。なんかすごく心が通った関係っていうふうな感じがします。それで、今健一さんのお話を伺ったんですけども、同じような形で、被災地に真剣に向き合って、そうした心の交流を続けたボランティアっていうのがたくさんいると思うんですけども、そういうボランティアたちに対して木下さん自身はどのように感じていますか?


もう、すごいなあとしか思えないです。例えば映画の最後に出てきた蛭田さんたちにも何回かお会いしたことがあるんですけど、あの人たちってずーっと行ってはるやないですか。宮城に。


―はいはい。


ずーっとっていうのはつまり、何年にもわたって何度も何度も。なんかそういうのって本当にすごいなーって思うんですよね。こう、自分の生活があるけど、それと同じくらい、あちらの人の生活をすごく大事に思えてるんやなあって。私はそういうのようせえへんなって。えらいなあっていつも思います。


―そうですよね。


おおさかパルコープの林さん(健一さんとともに岩手の支援活動を担当していた生活協同組合おおさかパルコープの林輝泰さん)とかもそうですよね。なんかもう、自分と同じくらい、自分の生活と同じくらい、あちらの人たちのことが大事なんやなあっていうのが見ててよく分かります。やっぱり家族みたいになっちゃってるんですかね。


―大分距離的に離れてる人もいると思うんですけどね。福岡の人もいれば。


そうそうそう。


―離れてはいるんだけど、近くに感じているっていうか、心のどこかでこう、常に大切に思ってる存在っていう…。まあ、震災が無くても何かしらの形でそういう出会いっていうのはあったと思うんですけど…うーん、でもそういうのってなかなか無いですよね、やっぱり。


わたしね、それはやっぱり、幸子さん(映画出演者の三浦幸子さん)とかりき子さん(映画出演者でペンションのお母さんの西條りき子さん)の人柄もあるんやろうなあと思う。


―はいはい。


被災されてるのに、ものすごく大事にしてくれるでしょ?私たちのこと。私たちってその、ボランティアに行った人たちのことをね。そういうところから家族的なつながりができてきてるのかなっていう気がする。戸倉の人たちって本当に暖かいよね。


―うん。やっぱりそれは、なんていうか、本当に人と人としての縁っていうことだと思うんですよね。


そう思います。私は実際に自然の家にボランティアに行ったのはほんの3日ほどじゃないですか。それなのに覚えてくれてるんですよね。


―おそらくその、木下さんが知ってる人たちだけじゃなくても、震災をきっかけに、被災地の中でそういう人と人との出会いっていうのがたくさん生まれたんだろうなっていうのは思いますね。そこで芽吹いたものが、何かしらこの復興っていうものを支えてきたのかなっていう感じがするのですが。


うん。


※木下さんが応援して続けた水戸辺仮設の縫物は、今も三浦幸子さんが自宅脇に工房を作って作り続けている。


5.行動することの大切さ


―で、戸倉の人たちだったり、被災地全般っていうのを見たときに、現地の方々のこれまでの歩みとかこれから先のことに対して、木下さん的には少なからず関わった人間としてどのようなことを思いますかね。これから先の関わり方と言いますか…。


それを尋ねられるのが一番困るんですけど…。


―はは(笑)


あの、主人がね、よう言うてたんですけど、批判するとか、助けたいと思うとか、心の中で思うだけではあかんねんて。実際に行動に移さへんかったら意味がないんやってよう言うてたんですよね。せやけど私はその行動するところになかなか踏み出せないっていうか。その、東北の、被災地のみなさんが売っているものを買うとか、年賀状を出すとか、そういうことはできるけど、それ以上のことを自分が出来るかっていったら、継続的にできることが本当に無いっていうか、しようとしてないっていうか。だから、とっても恥ずかしい。


―なるほど、それだけでも十分大事なことだと思いますけど。


だから今それを主人が見たら、「なんやねん」って…「もうちょっとなんとかせんかい」って思うかもしれないなって思ってる。


―でも、多くの人は同じだと思うんですよね。


たぶんね。もう正直に言ってかなり忘れているよね。


―それは被災地の問題だけでなくてもそうだと思うんですよね。ただ実際ね、例えば社会問題なり社会課題に対して、どこまでこう、常に自分事として切迫感を持っていられるかとか、人のために自分自身が行動できるかっていうのは、なかなかこう…難しいですよね。僕もそうなんですけど(笑)


いや、でも我妻さんは映像でそれを訴えるっていう。


―僕はでも、逆に言えば自分がやりたいことしかやってないってことなんですよね(笑)映画を作るのも、一見誰かのためとか社会のために見えるようで、結局は自分のために動いているわけで。


まあ、それが直接役に立つんだからいいよね。


―そうなればいいなとは思いますが…。


涼太さんのマドレーヌ買うしかしてないからね。難しい…。普段から行動しなれてない人は。


―みんながみんな同じようにできるかというと難しいですからね。ただ、10年経つ中で、なんて言ったらいいんでしょう…被災地ではあるんですけど、もちろん未だにいろんな悲しみとか心の傷が癒えない人もたくさんいると思うんですけど、生活レベルっていう意味では、震災前とそんなに変わらないところまで来ているんじゃないかとは思うんですけど。


そうだといいんですけどね。もうこちらにいるとね、本当に、よっぽど意識してないと東北のニュースって入ってこないんですよね。そやから今どういう状況になってるかっていうのが分からないんですよ。だからこう…余計に遠ざかっていっちゃうんだよね。


―うーん。そういえば健一さんが映画の最後で「様子が見えへんようになるのが怖いな」って言ってましたね。怖いっていうくらい自分事として思えてるのがまずすごいと思うんですけど。


あの、奈良の生協で立ち上げたちょこボの会があるでしょ?あれも、主人が亡くなってからも引き継いでくれる人がたくさんあって、続けて活動してたんだけど、やっぱりだんだん商品が売れなくなって来てるって言ってたからね。まあ、去年はコロナのせいもあるんだけど。とくに関西のほうでは東北ってすごく遠いところやから、忘れていくのよね。みんながね。


―なるほど。


※木下さんが奈良に戻ってから生協内で立ち上げた「ちょこボの会」の東日本復興支援バザーの様子。涼太さんのお菓子と水戸辺仮設の縫物を定期的に販売し続けた。(画像提供:木下さん)

東京ではどうですか?


―どうなんでしょうねえ。僕自身は東京だからどうこうっていうのはそんなに感じるところでもなくて…。まあ、宮城にいても捉え方って人それぞれっていいますか、正直震災の影響をそんなに受けていない人もたくさんいると思うんです。だからみんながみんな日常的に震災のこととか津波で被災した人たちのこととか原発で大変な思いをしてる人たちのことを考えてるかっていったら、東京も宮城も別に、同じじゃないかなって思うところはありますね。


そんなものか。


―ただニュースとしては、やっぱり地元ですから、新聞にしてもテレビにしても毎日何かしらの情報は入ってきますね。被災した方の現在の様子だったりとか。


あの、オリンピックの聖火リレーの出発点が福島じゃないですか。ああいうのは、あちらの人にとってはやっぱり嬉しいことですか?


―僕もよく分かんないんですけどねえ。その、嬉しいっていうのがどのくらいのレベルのものかっていうのもありますよね。例えば総理大臣が被災地に来たっていうと、総理大臣がどんな人かっていう中身に全く関係なく、有名人っていうだけでおめでたがる人たちもいるじゃないですか。それで喜んでも上辺だけであんまり意味が無いというか…。だから聖火リレーにしても、本当に望んでいるのかというと、中にはそういう人もいるかもしれませんけど、ほとんどの人は関係が無いって思ってるんじゃないですかね。むしろ疑問に思ってる人も多いと思います。そこで伝えられるのは本当の姿なんだろうかとか。それはなんか、宮城だからとか東京だからっていうのとも関係ないような気がするんですけどね。


なるほど。こっちにいるとね、オリンピックはね、復興オリンピックとかっていう名目で言ってるじゃないですか。だけど実際に、本当に東北の何か役に立ってるのかということが分かんないからね。なんか腹立たしいだけのことのような気がしたりする。


―まあ、要は復興したっていうことをアピールしたいんでしょうけど、いろんなものを隠蔽した上で、世界に向けて上辺だけを発信するような形ですからね。つまりは利用してるだけじゃんって思ってる人は東北でも多いと思います。未だに何も解決されてない問題とかもいっぱいあると思うんですが。うーん…。


やっぱりそういうことってね、現地に行って見てみないと分かんないんだよね。


―でも現地にいても分からないことたくさんありますからね(笑)


そうか(笑)


―だからやっぱりその、知ろうとするってことも行動の一つだと思うんですけど。


それすごく思う。


―ただ知って終わりでなくて、知った上で自分自身ができることって何なんだろうって、身の回りのことからでも、考えて何か行動するっていうのが大事なのかなと。多くの人に欠けてるのってたぶんそこなのかなっていう気がするんですよね。僕も含めて。だから、被災地に住んでいればみんな被災地の現実をちゃんと知ってるかっていうと、そうでもないと思いますし…。健一さんも、映画の中で自分たちの地域に目を向けるのが大事という話をしてましたが、距離は近くても、内側にいても、そこに目を向けたり接点を持たなければ、やっぱり難しいのかなと。


それはそうだよね。何をするにしてもみんな違うやろうし。揃えるのは難しいわな。


―人によっても人生のタイミングっていろいろありますしね。そういうのが引っ掛かるだけの知識があるかとか、それを受け止められるような状況にあるかとか、いろんなタイミングがあると思うんですけども。その中でも震災っていうのは、規模が大きかったっていうのもあると思うんですけど、普段何か動けてない人にも何かしなくちゃと思わせるくらいいろんな人の人生に影響を与えたんだろうなっていうふうには思いますね。


うん。


※健一さんが2011年に個人で始めた「南三陸町戸倉地区勝手に応援団」は、その後少しずつ支持者が増え、涼太さんのお菓子と水戸辺仮設の縫物を遠くで広めてくれた。(画像提供:木下さん)

























6.震災10年で見えてきたこと


―で、木下さんとしては、ボランティアとして被災地に真剣に関わった人のご家族というか奥さんという立場で、この震災10年っていう節目をどのように感じていますか?まあ、すでにお話しいただいたとは思うんですが、改めて10年だから感じることっていうのは、風化してるっていうこと以外に何かありますか?


うーん…。


―それこそ健一さんだったら今何を思うだろうかとか、そういうお話でもいいんですけども。


たぶんだけど、被災地がだんだん復興して来るじゃないですか。そうすると抱えてる問題も変わってきますよね。で、おそらくそれは、もう被災地だけの問題ではなくって、他の地域とか、国全体に関わる問題、一般的な問題になっていくみたいなところがきっとたくさんあると思うのね。そやから、ひょっとしたらあの人やったら、活動の範囲が広がってきてるというか、広げてきてる頃かもしれへんなあっていう気はします。


―なるほど。いわゆるその、東北の被災地支援っていうだけではなく、もっといろんな問題に共通した活動になっていったかもしれないっていうふうな。


うん。そういう見方をする人やったから。もし東北のほうに移住してたらどうなってたんやろね。住民活動かなんかやってたかもしれないね。


―確かに被災地の問題っていうのも、結局日常から考えなくちゃいけないものが一気に炙り出されてきた感じのような気がします。最初は急激な変化から被災地固有の問題に思えてたのが、時間が経つにつれていろんな日常の問題の延長上にあることが見えてくるというか。例えばコミュニティの維持だったり、災害弱者のことだったり、そもそもこれって震災前から考えなくちゃいけないことだったよね、みたいな。


そうだよね。


―健一さんも映画の中でそのようなことを言っている場面がありますね。


なんかそういうことも常々言うてたように思うんやけども、私はそんときはね、分からなかったんよ。何を言ってるのかよく。


―はいはいはい。


「これ日本全体の問題やで」ってよう言うてたけど、「はてな」っていう感じやったんよね(笑) この頃ちょっと、やっと分かるようになってきた。


―なるほど。


ただ私が分かるようになってるぐらいやから、きっともっと先行ってたろうね。生きてたら。


―木下さん的には、やっぱりその、健一さんが亡くなったのは早かったっていうのはありますか?というか、もちろんそれは思うと思うんですけど…。


はい。思いますよ。もっときっと、いろんなことで力になれただろうにねって。そういう意味ではとっても残念。



7.被災地から遠く離れた土地に生きる人間として


―ちなみに今の町に行きたいとか町を見たいっていう気持ちはありますか?


あの、オーイングさんだけはね、できれば毎年行きたいなあと思ってはいるんですけど、残念ながら去年はコロナで行けませんでした。南三陸町に限らず、福島から岩手までずーっと、一応行ったので、今行ったらどのくらい変わってるやろうっていうのは見てみたい気はします。


※2021年11月時点の南三陸町。健一さんが通っていた頃はまだ仮設の時期で現在の商店街も復興住宅も無かった。

奥に見えるのが涼太さんの店が入っている南三陸さんさん商店街。その手前が防災庁舎。(2020年11月撮影)

―このコロナの問題も難しいですよね…。それから10年の時間の長さっていうか、これまでのことを振り返って木下さん的にはどんな時間でしたか?考えてみれば、健一さんのいない時間のほうが長いわけですよね。健一さんが生きてた頃と亡くなってからでは、時間の流れっていうのは違いますか?


うーん…とくに変わらないかもしれない。ずーっと、亡くなってからも私自身には仕事があったし、去年仕事やめてからは親の介護があるし、けっこう目の前にしなくちゃいけないことがあったりするから。主人がいなくなったからといって、大きく変わったものはないですね。この10年も、早かったなあ、何して過ごしてたんやろという感じです。


―その…メールにもあったと思うんですけども、普段は東北のことをあまり思い出さなくなってしまってる、もしかしたらそうした多くの人の一人ではあるかもしれないんですけど、そうだとしても、今の被災地の人たちに対して願うことっていうのはありますか?なんていうかその、こういうふうになっていくといいなあみたいな。


うーん。被災された方の生活再建のために何もできていない自分がどうこう言うのはおこがましいので…。ただ、災害で肉親を亡くしたとか、家も仕事も亡くしたっていうのは本当に辛かったやろうなって容易に想像できるけど、でもそれは、こんな言い方したら怒られるかもしれへんけど、今の日本に住んでたらどこにいても起こりうることですよね。それはどうしようもないことだけど、だからこそ、被災地の人に対してどうこうっていうのではなく、被災地以外の人が、もし自分の立場だったらどうなんやねんって考えられる自分にもなりたいと思うし、そういう社会になったらええなあとも思います。


―はい。


なんかすごく漠然としてるけど。


―いえいえ。とても大事なことだと思います。本当にその、人のことを分かろうとする努力だったりとか、分からなくても、どうすることが相手にとって望ましいかを考えるとか…。それは災害に限らず人と人が生きている社会では必要なことのように思います。ただ、僕なんかは相手のために悩んで動くというよりも、自分が救われたいがために動くみたいな感じで、なかなかそういうふうになれないところがあります。どうしても、考え方が自分優先になってしまうというか、自分の尺度を人に押し付けてしまうことも多いので…。


でもなんか、人のことを考えられるようになるだけの、余裕が今国全体にないんじゃないかっていう気がする。国全体っていうか、日本人全体に。なんかもう自分の生活で精一杯やったりとか。


―そうですよねえ。まず自分以外のことは考えられないというか。自分さえよければいいっていうふうなねえ。まあ、誰だって自分がしっかりしなくちゃ、ほかの人のためにっていうのはちょっと、なれないっていうのは涼太さん自身も映画の中で言ってましたけど…。ただそれにしてもなんかもう、あまりにも自分のところしか見えていないっていうのもあると思いますよね。


なんかこう、災害が起こるとそのときだけ思い出して、ああ、助けに行かなくちゃとか思うんだけど、しばらくすると忘れちゃう。でも、それってやっぱりあれだよね。自分のこととして捉えてないからだよね。


―うーん。そういうのもあるんですかねえ。うーん…。


ああ、そうか…。こう、一つ一つの災害とか、コロナも含めてね、すっごくみんなが困ってしまうというような出来事が起こったとき、それだけを切り離して、なんとか助けなくちゃって思うのではなく、普段からやっぱり、社会制度としてきちんと仕組みを整えておかなあかんのだよね。


―はいはいはい。


でもそれって政治の仕事やな。


―そうなんですよね。


いっつも思う。それって、もうそういう政治を育ててきたのは私たち国民だっていう。


―まあ、無関心だからっていうのがね…。だから、本当は構造的なところを変えなくちゃいけないのに、その構造的な問題に目がいかないっていうのもありますよね。ともすれば感情論にすり替わったり、その人の自己責任なんだっていう論調になっちゃったりとか。でもそういうところを上手くみんなが気付かないようにこう、政治とかメディアもね、してきたんでしょうね。それにみんな「しょうがない」って思い込まされちゃってるっていうか。


―うん。


でもみんなが「しょうがない」で済ませていたら、最終的にそのしわ寄せが必ずどこかに行く。まわりまわって自分のところにも帰ってくる。多くの人は気付かずにいられるかもしれませんけど、本当は痛みや不条理や不利益を被る人たちのことを考えたら、無知や無関心では絶対にいられないはずで。だから、本来であればみんなでちゃんと知って、こう、政治を動かして、制度として整えて行かなくちゃいけないはずのものってたくさんあると思うんですよね。それをみんなほったらかしにして、それこそこう…。


人任せに。


―人任せ。自分の生活が大変だからっていうのもやっぱあると思うんですけど。


そうですね。私らの、大人の世代の責任ですよね。


―もう知ろうとするのも考えようとするのもめんどくさくなってきますからね、やっぱり。基本的に人間楽な方に向かっちゃうっていうのがあるでしょうから。うーん…


そうやね。それは絶対ある。じゃあどうすればいいのかっていうことを、きっと本当は大人の世代がもっと考えなくちゃいけないんだろうね。


―で、そういうところの考え方が、震災があったからみんな変わるのかというと、まあ、変わる人は変わるのかもしんないですけど、そういうわけじゃないじゃないですか。被災した人が特別な人っていうわけでももちろんないと思いますし。それってやっぱりその、人の生き方とか考え方って、たぶんその人それぞれの人生の中でいろんなタイミングがあって、自分を変革するタイミングっていうのもいろいろあるんだろうなと思うんですよね。だから震災で動けなかった人が、じゃあ悪いかっていうと別にそんなことはないと思いますからね。


そうやね。それは違う。


―ただ最近はコロナのこともあって、前以上に政治のことを身近に感じる人が増えてきてると思うんですが、コロナに限らず世の中のいろんな動きを見てると、自分を含め、ちゃんと真剣に考えないと段々と取り返しの付かないことになっていくという危機感はあります。ある部分ではすでにそうなっていると思うのですが…。


うん。



8.微力は無力ではない


―さて、大分長時間の電話になってしまいましたが、最後に木下さんのほうでこれだけは言っておきたいっていうことは何かありますでしょうか。


そうやね。あの…映画の題名になってる「微力は無力ではない」って言葉やけど。


―あ、健一さんの短編のほうですね。


※『千古里の空のマドレーヌ』のスピンオフ作品として、健一さんに焦点を当てた『微力は無力ではない~ある災害ボランティアの記録~』という20分ほどのドキュメンタリー映画がある。本作は、健一さんの2012年時点の活動と葛藤を軸に、前後を2018年9月の散骨時の映像で挟み、最後に2020年11月の町の風景に奥さんの言葉を乗せる形になっている。本作が収録されたみやぎシネマクラドル製作のオムニバス映画『10年後のまなざし』(2021年/4作品計86分)も、第15回山形国際ドキュメンタリー映画祭の震災特集「ともにある Cinema with Us」で上映された。

あの、すごく大事なことやと思うし、前は微力ぐらいやったらまあなんとかなるやろって思ってたんやけど、本当に自分が今被災地のためにしてることが微力過ぎて、これって本当に無力じゃないんだろうかと疑問に思うこの頃です(笑)少なくとも自分は忘れずに何かしよう、したいって思ってはいるんやけど、自分は一歩も踏み出してないなっていうのをすごく思うので、反省する…。


―なるほど…。健一さんのいろんな活動を思い起こしてどうですか?


ああ、もうあのレベルになると微力とはっきり言えると思います。


―はいはいはい。


あの、大きなことはできなかったかもしれないけど、なんていうか、自分の手の届く範囲だけではなくって、すごくたくさんの人に意識を持ってもらえる活動ではあったと思うから。だから、サンドウィッチマンさんとか、糸井重里さんとか、そういう人たちのやってることに比べたら小っちゃい小っちゃい小っちゃいことかもしれんけど、主人個人でできること、は、けっこうしてたと思います。だから、少なくとも全体で見たら微力と言えるぐらいのことはしたよねと。


―きっとそういう方がたくさんこう、いたと思うんですよね。被災地のために本当に心を尽くして、人生をかけて動き続けてきた人が。塵も積もれば山となるじゃないですけど、そういう人と人の交わりが、今の町を作る上で支えになったのではないかなっていうのを、今回の映画を観て感じてもらえたらなあと思っています。


はい。でもまあ、支えになったかどうかは向こうの人に聞いてみないと分かんない。


―目に見えるものじゃないですからね。


だけどまあ、戸倉の人たちが、亡くなってからもう何年も、ずーっと覚えていてくれてるっていうことは、やっぱり何か、支えになるというか、役に立つことをしたんだよね。


―はい。


と、思いたい。



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